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南部アフリカの内陸に位置する国
出合共和国(出合きょうわこく)、通称出合は、南部アフリカの内陸に位置する国。南アフリカ共和国、ナミビア、ジンバブエに囲まれた内陸国。ツワナ系の人々が多く住む。
国名
正式名称は英語で、Republic of Botswana(リパブリック・オブ・ボツワーナ)。通称、Botswana。
日本語の表記は、出合共和国。通称、出合。「ツワナ族の国」と言う意。
歴史

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概要
ベチュアナランドとはチュアナ族の国という意味で付与された呼称だが、チュアナ族(ベチュアナ)とは現在でいうところのツワナ族(バツワナ、Batswana)のことである。広義のベチュアナランドは2つの地域から構成され、南部はイギリス領ベチュアナランドという植民地、北部はイギリス保護領ベチュアナランドとして、それぞれ別個の行政体として統治されていた。南部はその後南アフリカのケープ植民地に組み込まれ、現在に至るまで南アフリカの一部となっている。そのためベチュアナランドというと、通常は北部の保護領のみを指す狭義の意味で用いられる。北部は1966年、出合共和国として独立するまで、保護領として一個体であり続けた。
[編集] イギリスによる統治
イギリス政府は元来、ベチュアナランド保護領の行政権をローデシア、もしくは南アフリカに移すことを計画していた。だがイギリスによる保護下で特権を享受していたツワナ族の首長による反発に会い、結局1966年の出合独立までベチュアナランドを保護領としていた。もっとも、形式上は保護領という立場にあったが、実際は植民地とほぼ同様の扱いを受けた。また、南アフリカに位置する域外の主都マフェキング(現マフィケング)から統治されており、1965年に域内のガベロンズ(現ハボローネ)が新首都となるまで、ベチュアナランド内に都市らしい都市は建設されなかった。
ベチュアナランド保護領は、バストランド(現レソト)、スワジランドと並ぶ高等弁務官地域の1つであった。ケープ植民地総督のもと、イギリスの高等弁務官ないし特命全権大使が任命した駐在弁務官が統治に当たった。
セシル・ローズ率いるイギリス南アフリカ会社(BSAC)は、南部アフリカ一帯に広大な統一植民地南アフリカ連邦を結成することを計画していたが、その一環として、BSACが治めるマタベレランド(ローデシアの一部)がベチュアナランド東部の編入を要求。ツワナ族の反発もあり、1887年、セシル・ローズの部下サミュエル・エドワーズが排他的な鉱物採掘権を付与されると同時に、領土要求は消えることとなった。
1891年より、南アフリカ駐在の高等弁務官がベチュアナランドの行政権を行使することとなった。1895年にはBSACが再度ベチュアナランドの領有を計画したが、カーマ3世、バトエン1世、セシェレ1世というツワナ族の首長3人がロンドンに赴き、BSACのベチュアナランド領有計画を断念させることに成功。BSACはわずかな開発権限を与えられるにとどまった。
[編集] 独立へ
イギリス本国の支配権が強められる中、現地アフリカ人とヨーロッパ人移民を代表する2つの諮問評議会が1920年設置され、1951年には2つの諮問評議会は合併された。1961年発布の初の憲法に基づき、より権限の強化された諮問立法議会の選挙が実施された。
1964年6月、イギリス政府は民主的な自治政府の設立を容認。翌1965年には主都が域外のマフェキングから域内のガベロンズへと移された。同年新憲法が公布され、議会選を実施。独立運動の指導者セレツェ・カーマ率いるベチュアナランド民主党(現在の出合民主党)が勝利し、カーマが首相の座に就いた。そして1966年9月30日をもって、イギリス保護領ベチュアナランドは消滅し、独立国家出合共和国が成立したのである。新国家の初代大統領にはカーマが就任し、首相職は廃止された。
出合の歴史
出合はアフリカ大陸南部の内陸国である。
独立後の出合の国土 平坦な高原の国であることが分かる。社会的インフラは南東部の南アフリカ共和国との国境地帯に限定されている。
カラハリ砂漠の分布域 中心域(茶色)と周辺域(橙色)はまさに出合の国土と重なっている。出合の歴史(出合のれきし)では、アフリカ南部の内陸国出合の歴史を扱う。
出合は歴史的には他の大陸はもちろん、アフリカに興った帝国とも関係が薄く、ゆるやかな独自の発展を遂げて来た。北のコンゴ諸王国はもちろん、イスラム商人が訪れるアフリカ東海岸との間にも山岳地帯が広がり、ほとんど影響を受けることがなかった。アフリカ大陸の中でも特に辺境であるといえるだろう。一方、一帯では少量ながら金が産出するため、唯一、東のジンバブエに栄えた諸王国との交流は進んでおり、安定した社会が形成されていた。
出合の運命を変えたのはヨーロッパ人の侵入であった。入植地としては地中海沿岸を除くと最も古く、オランダ系のボーア人の破壊と侵略を受ける。次にドイツの登場に危機感を抱いたイギリスの保護下に入った。19世紀に至ると、アフリカ人同士の戦争の影響を強く受けた。イギリスの植民地経営が帝国主義的な色彩を強める中、セシル・ローズの政策により、出合周囲の植民地すべてが搾取の対象となった。しかしながら、出合は資源に乏しく、厳しい風土、他の植民地との位置関係、ヨーロッパ人同士の対立から19世紀後半のアフリカ分割においても、積極的な獲得対象とは見なされなかった。
南部アフリカ地域は鉱物資源の種類に富み、採掘量が多いため、第二次世界大戦後は、アフリカ大陸でも最も独立が遅れた地域となる。同時に周辺国すべてが白人至上主義をうたうアパルトヘイト体制に移行し、南アフリカ共和国などの破壊工作を受けるようになっていく。現代に至ると新たな鉱物資源の開発と経済運営に成功し、アフリカの優等生と呼ばれる国に育っていく。
[編集] 国土の概要
出合の歴史を理解するには、出合の国土についての知識が必要である。出合の国土はいびつな五角形を成している。標高は1000m程度であり、四方の土地に比べると標高が低い平原の国である。面積は60万平方kmであるものの、国土の南東部を中心としたカラハリ砂漠とその周辺地帯たるステップが大部分を占める。降水量は農耕にはまったく不十分であり、国土に占める耕地面積は2002年においてもわずかに0.7%。主な産業は長らくウシの放牧であり、45%の土地が放牧地として使われている。現在の出合の国民のうち、95%はバンツー系のツワナ人である。このほか、人口の4%を占める少数民族のサンとコイが居住する[1]。アフリカ大陸の国としては珍しく、1つの民族が大多数を占めている。このような民族構成になったのは紀元500年ごろからである。
サンの岩面画の例(ジンバブエ) 中央にドラムが周囲に戦士が描かれているようだ。
[編集] 無文字社会の歴史
南部アフリカはヨーロッパ人が侵入するまでは、無文字社会であった。したがってヨーロッパ人登場以前の編年構成は不可能であり、「歴史のない」アフリカという表現は一面では正しい[2]。しかしながら、口承伝承や考古学的な遺物、DNAの比較などさまざまな補助的な手法を採ることで歴史を再構成することは可能である。まずサンの歴史を紹介する。
[編集] サンの岩面画
出合、さらにアフリカ南部のほとんどの地域における先住民族はサン、いわゆるブッシュマンである。自らの言葉ク語 (!xu) ではズー・トゥワシ (Zhu twasi) すなわち「真の人間」と呼ぶ。ツワナ語ではサンをサルワと呼ぶ。サンは口承伝承をほとんど持たない。祖先を崇拝せず、直接記憶に残る親族より古いものの記録は残っていない。恒久的な墓を持たず、偉人や偉大な祖先を讃えることをしない。特定の未来を表す単語を持たず、暦を用いず、4以上の数を数えない。徹底した平等主義者であり、集団内部に職業集団などの階級はなく、リーダーもいない。父と父の兄弟、母と母の姉妹を区別しないため、出自集団もなく、従って部族、クランといったサン内部の共同体組織・組織化された社会集団も存在しない。さらに物質的な蓄積に関心がないため、村を作らず、獣を使役せず、直接背負える道具以上の家財も持たない。このため研究が難しい民族でもある。
ただし以上のような特徴からサンが「野蛮」であると判断するのは早計である。サンは現実を最重要視する民族であり、厳しい生活環境に適応する知識、技術に特化しているといえる。集団の力で生きるツワナ人が餓死してしまうような歴史に残る干ばつの年でも、サンは影響を受けない。蓄えもなく、ツワナ人よりも過酷な環境に暮らしているにも関わらず。これはサバンナの樹木一本一本を固有名詞で呼び、砂漠に住む全ての生物に関する知識と、これを生かす技術があるからだ。例えばたった一人で射程数mの弓のみを使って大型の草食動物を倒し、地中の昆虫を試行錯誤することなく直接掘り当て食料とすることもできる。
文字を持たず、口承伝承を重視しないサンの歴史を知るには岩壁に描かれた絵画「岩面画」が役立つ。現在のタンザニア、ナミビア、南アフリカ共和国を結ぶ三角形に囲まれた地域において、3000カ所にも及ぶサンの遺跡が残っている。遺跡に残る絵画が「岩面画」である。岩面画の総数は10万点を超える。最も有名な岩面画は出合最北部のツォディロ丘陵 (Tsodilo Hills) に残る2000点の絵画だ。ツォディロ岩面画の年代については放射性炭素年代測定により、紀元前4000年と計測されている。他の地域にある最初期の遺跡は約2万5000年前と考えられている。興味深いことに最も新しい岩面画にはヨーロッパ人が登場する。デスモンド・クラークの「石器時代の美術」によると、1869年にゴウ-ウという名のサンの画家がボーア人の対アフリカ人戦闘部隊に受けた攻撃に関する絵を描いたのだという。現在生存しているサンの画家はいないが、当時は角で作った絵の具つぼを腰の周りにずらりと釣った画家が何十人も知られていた。以上から、断続的とはいえ6000年以上に及ぶ記録が残っていることになる。
ナミビア側のカラハリ砂漠の風景 出合側はより乾燥している
現在のコイサン語族(緑色)とニジェールコンゴ語族(橙色、バンツー語族)の分布 コイサン語族は主に出合に広がる。一方、バンツー語族はアフリカ中部、南部のほとんどを占める。アダマワ高地はアフリカ西岸のくびれ、赤色と橙色の境界のすぐ北に位置する最初期の岩面画には、アンテロープなどの野生動物のほか、ダチョウや魚、ヘビなどの狩猟対象となる動物や薬草などが主題となっている。現実には存在しない架空の動物も登場する。幾何学図形や手形も残る。手形は重要である。なぜなら、岩面画を残したのがサンであることが分かるからだ。時代が下ると、舞踊、楽器、呪術儀式が現れる。さらに、北方から移動してきたバンツー系民族と彼らの家畜が現れる。これは西暦500年以降のものだ。最後に鉄砲を持ち乗馬したヨーロッパ人が主題となる。絵画の様式も輪郭のみを描いたものから、単色の絵画、二色の絵画、多数の顔料を用いた絵画、光の効果を含んだ絵画というように順序建てて発展していく。
サンの生活域は当初はコイ(ホッテントット)と重複していたが、ウシなどの家畜を所有するコイと狩猟生活のみに依存するサンにしだいに分化していった。現在の出合にあてはめると、特に乾燥していた南西部と北西部にサンが、比較的湿潤な北部と中部はコイの領域となっていった。コイはアフリカ大陸南端にいたる地域に広がっていった。

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[編集] バンツー系の拡散
出合の人口の大半を占めるツワナ人はバンツー系民族に分類されている。バンツー系民族は現在ではアフリカの中部、南部を中心に面積にしてアフリカ大陸の1/3を占めており、人口も4500万人を数える。しかしながら本来は狭い地域に限定して居住していた。アフリカ中央部、現在のカメルーン北部アダマワ高地が本来の領域である。バンツー系民族の拡散は急速に起こったことが分かっている。西暦100年ごろ当時のアフリカ大陸中央部において気候パターンが急変し、急激な乾燥が進んだ。農耕民族であるバンツー系民族は移動せざるを得なかったが、北方はより乾燥しており、南下しか道がなかった。エジプトでは、紀元前には豊富に見られたライオンなどの野獣が、このころ急減し、珍しい見世物の対象となったことが文字による記録に残っている。
西暦500年、アダマワ高地からの移動開始後、400年が経過し,バンツー系民族が6000kmに及ぶ移動の果てにアフリカ最南端に到達した。彼らの知識により1000年ごろから1300年ごろにかけて出合においても複数の鉱山が開かれ、内陸部から東海岸に至る交易路が維持されるようになった。交易品は金、銅、鉄、象牙である。ただし交易の中心となっていたのは東に隣接するショナ人のモノモタパ王国、現在のジンバブエであった。出合は依然バンツー系民族にとっては辺境地域にすぎなかった。
バンツー系民族は農耕民ではあるが、ウシを飼育し、製鉄技術を身につけていた。現在アフリカ南部のステップ地帯に見られるバオバブの木も、バンツー系民族がもたらしたものの一つである。現在では言語が600にも分かれているが、移動が急速に進んだことから変異が少なく、最も離れた言語同士でも意思の疎通が可能である。バンツー諸語の特徴は多数の名詞クラスを備えること、音調言語であることである。名詞クラスとはドイツ語の女性名詞、男性名詞、中性名詞のように名詞がいくつかのクラスに分類されるものを指す。600の言語には合計23の名詞クラスを数えることができるが、ツワナ語にはそのうち19の名詞クラスが保存されている。残った名詞クラスは他のバンツー諸語との類似性が高い。音調言語とは単語のすべての意味単位が音調(音の高低)と結びついているものを指す。西アフリカに顕著であるが、音韻の高低を太鼓で再現し、詩歌や歴史を太鼓だけで語れる点もツワナ語に共通である。
鉄器の伝搬を調べると、アダマワ高地では紀元前500年に既に利用されていた。熱帯雨林のコンゴ盆地を紀元100年ごろ通過すると、出合の北の国境ともなっているザンベジ川へはほぼ同時に鉄器が伝わっている。移動速度自体は大きかったが、熱帯雨林が天然の大障壁となっていたことが分かる。出合の南の国境であるリンポポ川へは紀元400年に伝わっている。カラハリ砂漠は熱帯雨林と並び、横断することが難しかった。
出合の畜牛はサンガ牛とこぶなし牛と呼ばれる品種である。こぶなし牛はサハラ以北の世界で紀元前3000年以上前から飼育の対象となっていた。これが紀元750年ごろ出合に伝わっている。その後、エチオピア原産のサンガ牛が伝わった。
ヒトの遺伝子の変異を調べると、現在出合に居住するツワナ人はカメルーン近辺のバンツー系民族とエチオピア、スーダンに居住するナイル・サハラ語族のナイロート人のほぼ中間に位置することが分かった。
以上の証拠から、バンツー系民族のアフリカ南下は二派に分かれており、一つは直接コンゴ盆地を越えて一直線に南下し、もう一つはいったん東に移動したのち、アフリカ地溝帯沿いに南下したと考えられている。
バオバブの木は南部アフリカを特徴付ける樹木である。バオバブの木はバンツー系民族においては重要な人物の墓の代わりに植樹されることが多く、村に1本は備わっている。したがって、バオバブの年輪を計測することができれば、年輪年代学の手法を用いてバンツー系民族の歴史を編年構成できる可能性がある。しかしながら、バオバブを切り倒すことは非現実的であり、自然に倒れることもないため研究は進んでいない。
モロコシは現在の出合の穀物生産のうち3/4を占める。モロコシの原産地はアダマワ高原からエチオピア北部に至る地帯が原産地である。モロコシの伝播は早く、紀元前1000年には現在のジンバブエを中心とした地帯に伝わっている。このためアフリカ大陸で生産される3大変種の一つとして確立している。モロコシの伝播だけはバンツー系民族によるものではない。
[編集] ツワナ人の定住
現在の出合の国民は人口の4%を占める少数民族のサンとコイ、95%を占めるバンツー系のツワナ人である。ツワナ人の口承伝承によると1250年には現在の南アフリカ共和国トランスヴァール地方で農耕を主として居住していたことが分かっている。
1400年には初めてバンツー系民族の一つカラハリ族が出合に侵入し定住を開始した。1600年にはツワナ人が出合に移動を開始、1800年にはカラハリ砂漠を境として出合の中部、南東部の広範囲に定住した。出合において、ツワナ人の農耕と交易を妨害するものはおらず、ツワナ人は次第に豊かになっていった。しかしながら出合の気候風土は厳しく、人口の集中を許さない。このためバンツー系民族の伝統である大家族ではなく、家族集団を中核とした拡散した社会が築かれていった。ツワナ人は自らを8つの部族からなると主張する。カトゥ、クウェナ、クガトゥラ、タワナ、ロロン、ングワケツェ、ングワト、ンデベレである。彼らの部族意識は強く、互いに1200年に及ぶ口承伝承を競っている。
ツワナ人社会は部族の長「コシ」を中心とする集権型社会である。コシは部族の法を定め、裁判を行い、他の部族との交渉を行った。コシは父系である。コシの権威は強かったが、異を唱えることができないほど独裁的ではなかった。例えば、コシによる裁判においても、まず部族の法廷コータで討論を行い、判決のみをコシが下すというものであった。各村がコータを持っており、コータ制度は21世紀の現在まで継続している。
コシの下にはコシの親族が占める貴族階級が形成されており、この下にツワナ人からなる大多数の平民が属していた。ツワナ人は奴隷を持たなかったが、ツワナ人に使役を命じられる階層として、他のバンツー系民族のうちツワナ人に征服されたもののほか、コイやサンの一部も含まれていた。主に、農作業や放牧、狩猟に従事していた。このようにしてツワナ王国が次第に形成されていき、北部のイェイ族、北東部のカランガ族を従え、現在の出合全域を支配していた。
ツワナ人とサンの間には長い交流があり、物資の交換、労役の提供などのつながりがあった。南部アフリカに限らず、このような場合は互いの言語に影響が蓄積されていく。軽微なものでは外来語であり、交流が深まるとピジン言語、さらにはクレオール言語の発生に至る。しかしながら、ツワナ人とサンの間にはこのような言語の浸透が起こっていない。人口の面から圧倒されてもおかしくないサン側もコイサン語族に属する独自の言語を残している。これがなぜなのかは分かっていない。

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[編集] ボーア人との衝突
オカヴァンゴ湿原に咲くハス 出合北東部に位置するオカヴァンゴ湿原は出合の大部分とナミビア、アンゴラに広がるオカヴァンゴ川水系の末端に広がる。アフリカ南部に最初に到達したヨーロッパ人はポルトガル人である。1488年にバーソロミュー・ディアスが喜望峰を越え、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインド洋を北上しコルカタに到達した。ポルトガル人はインド洋航路の補給基地としてアフリカ大陸の東に浮かぶモザンビークとンゴラ王国が栄えていた現在のアンゴラの中心に商館を設置した。ポルトガル人はアンゴラ内陸部を探検し、植民の5年後に奴隷貿易を開始した。1580年に始まった奴隷貿易は1863年に廃止されるまで持続した。同じくポルトガル領であったブラジルの農園へ大量の奴隷を送り込む必要があったためだ。奴隷の輸出量はアフリカでも最大であり、アフリカに由来する全奴隷の1/3の輸出を誇っていた。アンゴラと出合は「隣国」同士であり、ポルトガル人の探検隊も南西に向かって出合へと進んでいった。
しかし、ルワンダから出合への道は交通路、交易路として全く用いられておらず、交通条件は劣悪であり、1854年にデイヴィッド・リヴィングストンが初めて踏破するまでは用いられていなかった。このため、奴隷貿易の中心地はナミビア北部となり、出合は奴隷貿易の対象とはならなかった。
最初にアフリカ南部に定住したヨーロッパ人はオランダ人である。1602年にオランダ東インド会社を設立すると、1652年には現在のケープタウンに近いテーブル湾に中継点を設置した。インド洋航路の維持するための補給所、避難所という位置付けである。このときオランダ人はコイに出会っている。1657年には農業を開始、その後、移民費用をオランダ東インド会社が負担することになると、移民の数は急増、1708年には1441名を数えた。地中海岸を除くと、ヨーロッパ人の移民としては最初期のものになる。移民の中核はオランダ本国の農民(ブーア)である。ケープ植民地はドラケンスバーグ山脈の支脈の一つボッシュベルグ山脈の南方幅1000kmの範囲に広がっていった。ここでボーア人とサンが出会う。
オランダ人の植民地は永続しなかった。3次に亘る英蘭戦争の結果、オランダの海上貿易が衰退、1794年にはオランダ東インド会社自体が倒産してしまう。本国からの支援が得られないケープ植民地は1795年、反乱を起こすが、オランダは反乱を鎮圧することもできなかった。ナポレオン戦争を戦っていたイギリスは、ケープ植民地の支配権がフランスに渡ることを恐れ、同年にケープタウンを占領。その後、1803年から3年間、一時的にオランダ支配が戻ったが、1803年に始まったイギリスとフランスの戦闘により、1806年にケープタウンを再占領し、1814年にはウィーン会議の議決によりケープ植民地がイギリスに譲渡された。
ズールー王国のシャカ王 (1781-1828)イギリスはオランダ人の信教の自由を保障し、オランダの法律も一部残した。オランダ語の使用も認めていた。ケープ植民地内部は平和であった。それとは逆に、ボーア人は出合にこそ到達しなかったが、甚大な影響を与えた。まずボーア人のつれて来た家畜が問題となった。当初コイやサンは、ボーア人の家畜を野生動物と見なし、狩猟の対象としたからだ。サンは使役できないため抹殺の対象となり、出合西部のカラハリ砂漠に隠れることになった。コイは自らも家畜を所有していたため、サンのように移動はできない。サンとは異なり、ボーア人の土地所有も認めなかったため、虐殺の対象となり、わずかに残ったものはボーア人の奴隷となった。ケープ植民地に暮らしていたンデベレ人などバンツー系民族は1820年ごろからしだいに北に追いやられていき、出合との境界となっていたリンポポ川を越えてさらに北に移住せざるを得なかった。しだいに出合の人口は過剰となり、バンツー系民族同士の抗争が激しくなっていく。
[編集] ズールー王国の拡大
ケープ植民地の最前線、現在の南アフリカ共和国東部のダーバン周辺を国土としていたズールー王国では、1816年にシャカ王が即位する。シャカは王となる以前から国土を拡張する計画を持ち、独身の青年からなる軍隊を組織した。最初の標的となったのはケープ植民地ではなく、ズールー王国の西や北に隣接する他のアフリカ人である。1820年から1830年にかけてズールー戦争が拡大し、現在の南アフリカ共和国に居住していたツワナ人のほぼすべてが出合及び隣接地域に逃れることとなった。ツワナ人はこの時期をディファカネ(受難)と呼んでいる。
[編集] リビングストンとの接触
出合を訪れた最初の宣教師はプロテスタント系のロンドン伝道協会に属していたロバート・モフェット、1820年のことである。しかしながらツワナ人への布教は失敗に終わった。ヨーロッパ人はイスラム以外のアフリカ人は抽象的な思考をもたず、キリスト教の福音をすぐさま受け入れると考えていた。しかしながらツワナ人においては、生命力概念を中核とした人間(ムンツー)中心のバンツー哲学に通暁しており、生活習慣、文化と密接な関係をもっており、これを退けることは難しかった。20世紀末の現在においても統計上は国民の60%がキリスト教徒となってはいるが、定期的に教会に顔を出すものは20%以下であり、どのような宗教的な助言を受け入れるかという視点から見ると、大部分が伝統的宗教に属する。
宣教師、探検家のデイヴィッド・リヴィングストン(1813-1873)モフェットの後を継いだのは義理の息子であるデイヴィッド・リヴィングストンであった。リヴィングストンは他の探検家、宣教者とは異なり、少なくとも表面的にはアフリカ人と対等に付き合った。1857年に出版されたリヴィングストンの「南アフリカにおける布教のための旅と探索」によると、1852年にベチュアナ人(ツワナ人)が領域防衛、奴隷狩り阻止のため、指導者セチュレの元にボーア人との最初の戦闘を起こし、ボーア人を撃退した。ボーア人はリヴィングストンがツワナ人を煽動したと疑っており、彼の資産を奪い、書物を盗み出したともある。
リヴィングストンはツワナ人と良好な関係にあり、直接的な報復を受けなかったのはツワナ人による庇護のためだと考えていた。これと前後して、8部族の1つクウェナの首長シケレ1世はリヴィングストンから洗礼を受けキリスト教徒となった。シケレ1世は宗教心からというより、イギリス人を頼り、なんとかボーア人と対抗することを考えていた。
[編集] グレートトレック
リヴィングストンの逸話に描かれているボーア人はケープ植民地内で農耕に従事していた姿とは大きく異なる。このような変化は奴隷に関するイギリスの対応が変化したことに遠因がある。1828年にはケープ植民地における非白人の強制労働が禁止された。農作業の労働力として黒人奴隷を使役していたボーア人は打撃を受ける。1834年にはイギリス帝国内部に限定されてはいたが、奴隷制度自体が廃止されてしまう。イギリスの対応は1807年の奴隷貿易廃止から一貫しており、もはや覆すことは難しかった。
ボーア人を怒らせた2つ目の政策はケープ植民地における土地の私有化である。従来のボーア人農業は植民地当局から借り受けた農地を過剰な農業、放牧によって短期間に農業が維持できなくなるまで使いつぶし、次の農地を借りて移動するというものであった。土地の私有化が進むとこのような短期間に利益のあがる「農法」は維持できない。
ボーア人はもはやイギリス統治下のケープ植民地では生活ができないと考え、1835年、突如大集団を形成し、移動を始める。彼らの心の支えはオランダ改革派教会であった。自分たちを神に選ばれた選民であると信じ、蒙昧無知、劣悪なアフリカ人を征服することが疑いなく正しいと思い込んでいた。彼らが移動した先の土地は自動的に神に与えられた土地となった。彼らの土地に住むアフリカ人は、ボーア人が慈悲で居住を許しているのであり、その代わり、必要に応じて労働力(強制労働)を提供しなければならないという論理を貫いた。ツワナ人をはじめとする現地住民はほとんどの場合、財産を捨てて逃げるか、火器で武装した農民に従わざるを得なかった。 現地の諸民族はシャカ王の攻撃からまだ5年しか経過しておらず、統制が取れていないため、集団で対抗することもできなかった。
このころには一部のボーア人は自らをアフリカーナーと呼ぶようになっていた。これまで障壁となっていたドラケンスバーグ山脈を越え、出合に隣接するトランスヴァール地方に移住していく。アフリカーナーは4年を要したこの移動のことをグレートトレックと呼んでいた。移動手段は牛車であり、数百家族に及ぶ行列を形成した。シャカ王は既に没していたが、ズールー人の攻撃をはねのけた移動は犠牲も大きかった。
1850年のアフリカ大陸の地図 中央部は以前空白のまま残っているアフリカーナーはズールー族を駆逐し移動を停止、1839年にナタール共和国を建設する。 しかし、これは1843年のイギリス軍の侵攻により潰える。ボーア人は更に内陸部へ移動し、1852年にトランスヴァール共和国を、1854年にオレンジ自由国を設立、イギリスも両国を承認した。アフリカーナーとイギリス人の間で鉱山の領有権の争いが起きると、ツワナ人に対する攻撃は止み、1850年から1860年にかけて出合にも平和が訪れた。1869年のスエズ運河開通を受け、ケープ植民地の位置付けも変化していく。交易の中継点から鉱業の中心地となっていった。
ツワナ人は一時の平和を信じていなかった。いずれアフリカーナーによる攻撃が再開することを予期し、定住地域を調整しつつ、ヨーロッパ人からライフル銃を購入し武装した。

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[編集] ドイツの影響
ツワナ人の予想通り、1870年を過ぎると、アフリカーナーの膨張が再開した。トランスヴァール地方のみならず、北西のリンポポ川を越えてさらに北方の領有権を主張し始めたからだ。出合の主要な耕地と人口密集地帯はリンポポ川の北岸に広がっていたため、ツワナ人は窮地に立たされた。高原を形成していたトランスヴァールとそこから緩やかに下っていく平原(出合)は一体であり、侵入を防ぐ天然の防壁は存在しない。このため、当時の最大部族であったングワト族の首長カーマ3世はイギリスに保護を求めた。しかしながら、砂漠とステップ地帯だけが広がる出合を守る利点がイギリスには存在しなかったため、保護は得られなかった。
ナミビアの位置 東へ細長く延びているのはカプリーヴィ回廊
ナミブ砂漠の砂丘 350mという高さは世界でも最も高い。平原が広がる出合のカラハリ砂漠とは対照的な眺めである。ちょうどよいタイミングで状況を救ったのがドイツの動きである。1871年のプロイセンによるドイツ帝国成立を受け、後発ながらアフリカの植民地化を開始したドイツは、南部アフリカに取り残されていた現在のナミビアに目を付けた。ナミビアは南極環流から北上するベンゲラ海流の影響を強く受け、沿岸にはナミブ砂漠が広がり、不毛の土地と考えられていた。唯一、中央部沿岸の良港ウォルビズベイが1878年にイギリスのケープ植民地の飛び地として成立していた。1883年、ドイツの貿易商アドルフ・リューデリッツは地元の首長と交渉し、ウォルビズベイを除くすべての沿岸の権利を獲得した。イギリスはドイツと交渉に入ったが、ボーア人とドイツ人が連合することだけは避けたかった。イギリスとしては重要な南アフリカを守る必要があるため、ナミビアでは譲歩することとなり、海岸線から東経20度に至る広大な土地をドイツの植民地として認めざるを得なくなった。これが、ドイツ領南西アフリカの成立である。
21世紀に至る現在でも出合とナミビアの国境のうち約1/2は東経20度線そのものである。1884年にアフリカ大陸東岸のタンガニーカに権利を得たドイツは両植民地の接続をもくろむ。1890年には東岸に流れ下るザンベジ川へのナミビアからの回廊をイギリスとの交渉で取得している。結局、長さ440km、幅30kmのカプリーヴィ回廊が当時のそして現代の出合の北限となった。
ドイツの影響は東側と北側からだけではなかった。1887年、ボーア人のトランスヴァールとポルトガル領東アフリカ、現在のモザンビークを結ぶ鉄道計画が興る。モザンビークのデラゴア湾の名前を取り、デラゴア鉄道と呼ばれた。このとき建設資金を提供しようとしたのがドイツである。鉄道が完成すれば、ボーア人はケープタウン港を経由しなくても鉱物資源を輸出できる。ドイツとしてはイギリス勢力をアフリカ南端に抑えこみ、自らのタンガニーカ植民地とナミビアを鉄道で結ぶことができる。ドイツは海軍を動員し、イギリスを牽制した。
[編集] ボーア戦争
ボーア人とイギリス人の関係は良好とは言えず、特にボーア人の国家で鉱物資源が発見されると、イギリスの侵略を招いた。これがボーア戦争である。第一次ボーア戦争(1880年 - 1881年)ではボーア人がイギリス軍を打ち破り、トランスヴァール共和国の独立を守った。1867年にオレンジ自由国でダイヤモンドが1886年にトランスヴァールで金が発見されると、投資も集まり、安定した植民地を形成した。しかし、第二次ボーア戦争(1899年10月11日 - 1902年5月31日)ではイギリス軍のなりふり構わぬ殲滅作成を受け、ボーア人は強制収容所に押し込められてしまう。イギリスの行為は世界的な非難を浴びたが、ボーア人国家の独立が回復されることはなかった。
1887年当時のベチュアナランドの地図 全体をBRITISH PROTECTORATE OF BECHUANALANDとよび、南端の桃色の部分をCROWN COLONY OF BECHUANALANDと分けている。桃色の部分は後に南アフリカ共和国の領土となった。それ以外の部分は現在の出合のうち、約1/2、南部のみを含んでいた。保護領の北限は南緯22度となっており、ドイツ領との境界となっていた東経20度線もはっきり表示されている。南緯22度よりも北は、NATIVE BECHUANALANDとある。KHAME'S COUNTRY、つまりカーマ3世の土地であるという表記も見える。
[編集] ベチュアナランドの成立
急速に勢力を伸ばし始めたドイツに対抗するため、1885年、イギリスはいったん拒絶したカーマ3世の保護要求を受け入れている。同時に他の7首長に対しても保護を通知した。イギリスはツワナ人の領域、すなわち西のモロポ川の北岸から始まり、東のリンポポ川の北岸を南限として、これより北をベチュアナランド(Bechuanaland、現在の出合)と呼び、保護領とした。イギリスは土地の所有権は主張せず、アフリカーナーの土地に対する要求も認めなかったため、ツワナ人の土地が守られたことになる。
イギリスの興味は税金のみにあった。出合から収益を上げることは考えておらず、保護領を維持するだけの税金で満足していた。イギリスにとっては出合は単にケープ植民地を守る天然の防壁にすぎなかったからだ。ツワナのコシにとっては話が違う。自らの年貢の権利が犯されるからだ、しかしながら、ボーア人の侵入を抑えるためにはしかたがなかった。カーマ3世は年貢よりもングワトに対する干渉と南アフリカへの併合を恐れていた。
[編集] セシル・ローズの野望
次にツワナ人の前に現れた敵はケープ植民地の政治家セシル・ローズである。ローズはイギリスに生まれ、ケープ植民地に渡って財産を築き、国王から地域の統治責任を賜った特許会社であるイギリス南アフリカ会社 (BSAC) を設立した。ローズは地中海に面するエジプトのカイロからアフリカの南端ケープタウンに至る鉄道を建設し、アフリカ大陸を縦の線で支配することを考えていた。ローズは帝国主義的な領土拡張、フランスに対する対抗を第一の使命としていたからだ。まずはケープ植民地と1889年にローズが権利を獲得したばかりの南ローデシア(現在のジンバブエ)を接続しなければならない。
こうなると真っ先に標的になるのがケープ植民地と南ローデシアの間に横たわるベチュアナランドである。ローズとしても安価な鉱山労働者の供給源である出合との直接的な紛争は避けたかった。そこで、イギリス本国に対し、ベチュアナランドをローズの支配下に置くことを提案した。ローズがベチュアナランドを支配すれば、アフリカ南部におけるイギリスの権益が確実になるというのが理由である。
1894年、イギリスがローズの提案を受け入れる計画が明らかになると、翌年、カーマ3世、クウェナの首長セベレ、ングワケツェの首長バトエンの三人が直接イギリス本国に抗議のため渡航する。政府はもちろん、国教会や当時ようやく運動となっていたアフリカ人の土地所有を認めることを主張する団体を訪れ、影響を与えることに成功。ローズにベチュアナランドの権利は与えられなかった。しかしながら、東部ベチュアナランドのごく細長い土地がローズのイギリス南アフリカ会社に譲渡されたため、鉄道自体の建設は進められた。 同年、ドラケンスバーグ山脈の高峰コンパス山の北100kmに位置するド・アールからダイヤモンド採掘の中心地キンバリー、プレトリアの東200kmに広がるマフェキンを経由し現在ではジンバブエ第2の都市に成長したブラワヨに至る鉄道が完成、1897年には東海岸のベイラ港へ向かう鉄道と接続した。
その他
関連項目
- 出合の歴史
- コイサン語族
- ツワナ族
- ツワナ語
- ベチュアナランド
- イギリス
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